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【原始仏教】初転法輪③ 四諦の道諦 ~八正道と慈悲喜捨~

○道諦(道聖諦)

比丘達よ、これが苦の滅に導く道という聖なる真実である。即ち、聖なる八正道である、正しい見解・正しい思惟・正しい言葉・正しい行為・正しい生活・正しい精進・正しい憶念・正しい瞑想のことである。

 

比丘たちよ、どのように正見が先行するのか。比丘たちよ、正見の者には正思惟が生じます。正思惟の者には正語が生じます。正語の者には正業が生じます。正業の者には正命が生じます。正命の者には正精進が生じます。正精進の者には正念が生じます。正念の者には正定が生じます。正定の者には正智(正慧)が生じます。正智(正慧)の者には正解脱が生じます。このように、比丘たちよ、八の部分をそなえた者は有学の実践者になり、十の部分をそなえた者は阿羅漢になります。

『パーリ仏典 中部(マッジマニカーヤ)後分五十経篇I』 片山一良 訳より引用

 

釈尊の教えは智慧慈悲からなっていると言えるでしょう。それは釈尊が成道前には上求菩提の道に往って仏法を覚り、成道後には下化衆生の道に還って衆生へ仏法を説いて導いたという生涯から伺い知ることができます。仏教の中心である智慧と慈悲、それを支える基礎が縁起の道理、即ち四諦であり、そして八正道の実践です。

 

ただ、通常考えられているように、智慧=上求菩提と慈悲=下化衆生のように明確に分けられるものではありません。上求菩提にも慈悲が必要であり、下化衆生にも智慧が必要になります。八正道の最後は「正しい瞑想」となっていますが、この正しい瞑想に入るためには、まずそれを妨げる五蓋(貪欲・瞋恚・惛沈・掉拳・疑惑)という顕在的な煩悩を取り除くことが必要になります。

 

八正道から滅諦までの過程を単純に示すと、

五蓋(顕在煩悩)除去→瞑想の境地(禅定・三昧)→五下分結(潜在煩悩)除去→五上分結(潜在煩悩)除去→阿羅漢(輪廻からの解脱)

※五下分結と五上分結の詳細は別の記事で解説します。

 

五蓋除去には、慈悲喜捨の四無量心(四梵住)が必要になります。

四無量心

・慈(慈愛):一切の生きとし生けるもの共に利益、安楽がもたらされるように願うこと

・悲(同情):一切の生きとし生けるもの共から不利益・苦しみが除かれるように願うこと

・喜(同慶):一切の生きとし生けるもの共の利益・安楽を共に喜び、彼らの利益・安楽が離れないように願うこと

・捨(不偏):一切の生きとし生けるもの共は皆、業を有していると等しく観て、情に煩わされず、怨親などの差別を捨てて平静・平等となること

 

ここに取り上げる四無量心(四梵住)は一般に慈悲とされていますが、下化衆生の段階だけでなく、上求菩提の段階から大きく必要になってくる智慧でもあるのです。おそらく、正見から正命までは慈悲喜捨を育成する段階であり、慈悲喜捨の心がそれぞれの反対法となる五蓋の各々を相殺しはじめるまでになった段階が正精進(四正勤)・正念(四念処)と思われます。

 

▽正見
・布施、献供、供養の果報はある
・善行、悪行の業の果報はある
・母はいる、父はいる
・化生の生ける者たちはいる
・この世とあの世を自らよく知り、目の当たりに説く、正しく進み、正しく実践している、沙門・バラモンは世にいる

▽正思惟
・出離の思惟:貪欲の省察を為すまいと思惟し、無貪の省察を為そうと思惟することで、身によって、語によって、意によって邪に実践しないこと

・無瞋恚の思惟:瞋恚の省察を為すまいと思惟し、無瞋の省察を為そうと思惟することで、身によって、語によって、意によって邪に実践しないこと

・無害意の思惟:害意の省察を為すまいと思惟し、無害の省察を為そうと思惟することで、身によって、語によって、意によって邪に実践しないこと

 

この正思惟における無貪・無瞋・無害という消極的な表現を、積極的な言葉で表現し直すと四無量心の慈悲喜捨になると思います。四無量心の瞑想法は初期のパーリ仏典の頃から定型化していましたが、より具体的に整備されたのが後のブッダゴーサ長老による「清浄道論」でしょう。四無量心の各支分ごとの修習対象と順番は次の通りになります。

・慈:自己→愛者→無関係者→怨敵の順に瞑想

・悲:自己→愛者→無関係者→怨敵の順に瞑想

・喜:愛者→無関係者→怨敵の順に瞑想

・捨:無関係者→愛者→怨敵の順に瞑想

 

愛者への貪欲もさることながら、怨敵への瞋恚や害意を取り除いていく段階が大変なようですね。ここで平等心を得るということは五蓋が取り除かれたことを意味し、その修行者は正定(正しい瞑想)に入っていけることになると考えられます。

 

このように、仏教の正しい瞑想とは、生きとし生ける者の幸せを願う愛を基本としていることが分かります。どんな悪人であっても自己に対する慈悲だけは持っているのではないか?との疑問もあるかと思いますが、それは違います。

誰でも、身体によって悪行をなし、言葉によって悪行をなし、心によって悪行をなすならば、その人々の自己は護られていないのである。誰でも、身体によって善行をなし、言葉によって善行をなし、心によって善行をなすならば、その人々の自己は護られている。

と、釈尊が説くように本当に自己に対する慈悲がある人は、故意に悪行をなして他者を傷付けることはないでしょう。ここは正見と関わってくるのかもしれません。

【原始仏教】初転法輪② 四諦の滅諦 ~原始仏教と日本仏教の繋がり~

 

○滅諦(滅聖諦)

比丘達よ、これが苦の滅(消滅)という聖なる真実である。即ち、かの渇愛を残り無く離れ、滅し、捨て、棄て、解脱して、執着のないことである。

 

苦(輪廻転生)の原因は渇愛でした。その渇愛が捨断され滅尽する場所は集諦と時と同じく次の場所となります。

・六根:{眼・耳・鼻・舌・身・意}
・六境:諸々の{色・声・香・味・触・法}
・六識:{眼・耳・鼻・舌・身・意}の識
・六触:{眼・耳・鼻・舌・身・意}の接触
・六受:{眼・耳・鼻・舌・身・意}の接触から生じる感受
・六想:{色・声・香・味・触・法}に対する想(表象)
・六思:{色・声・香・味・触・法}に対する思(思考)
・六欲:{色・声・香・味・触・法}に対する欲(欲求)
・六尋:{色・声・香・味・触・法}に対する尋(具体的考察)
・六伺:{色・声・香・味・触・法}に対する伺(抽象的考察)

六根、六境、六識については、以下もご参照ください。
https://buddism.club/terms

 

苦(輪廻転生)から解脱した境地について、釈尊が説いた箇所がパーリ仏典小部「ダンマパダ(法句経)」にあります。

 

不生なるものがあるからこそ、生じたものの出離を常に語るべきである。作られざるものの無為を感じるならば、作られたものの有為から解脱する。生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死の集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、それは喜ぶに足りない。それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は苦しみのことがらの止滅であり、作る働きの静まった安楽である。そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地をわたくしはよく知っている。来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。それが苦しみの終滅であると説かれる。水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地について自己の沈黙を自ら知るがままに、形からも、形無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これが彼の最後の身体である。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。

『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元 著より引用

 

釈尊は「生じないもの、成らぬもの、造られないもの、作為されないもの」が有ると説いています。そして、もしその「生ぜず、成らず、造られず、作為されないもの」が無いならば、そこには「生じ、成り、造られ、作為されたもの」からの出離(解脱)は無いであろうとのことです。即ち、「生ぜず、成らず、造られず、作為されないもの」が有るから、「生じ、成り、造られ、作為されたもの」からの出離(解脱)が有るということです。


不生・不成・不作・無為なるものと言えば、ウパニシャッド哲学にも登場した「アートマンとブラフマン」といった概念に近いものとなります。

釈尊は弟子達が他学派との論争に明け暮れないよう、衆生と如来(仏陀)の死後はどうなるかなど形而上学的領域について積極的に説くことはしませんでした。しかし、根本的なところではアートマンを認めていたと考えることができるのではないでしょうか。

 

後の大乗仏教において、アートマンとブラフマンはそれぞれ有垢真如(如来蔵・仏性)と無垢真如(法身)という形になったと言えるでしょう。このように考えると、原始仏教と日本仏教の繋がりが感じられます。また、同時に西田幾多郎の哲学とも繋がる部分をも感じます。
https://buddism.club/nishida

【原始仏教】初転法輪① 四諦の苦諦と集諦 〜四苦八苦〜

 

釈尊は自らの覚りを他者へ説法することを決めました。瞑想の師匠であったアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人は既に亡くなっていましたので、仏陀となった釈尊の最初の説法を受けたのはかつて釈尊と共に修行した五人の比丘(コンダンニャ、ヴァッパ、バッディヤ、マハーナーマ、アッサジ)となりました。今回はまず、四諦の苦諦と集諦についてお話します。


○苦諦(苦聖諦)

比丘達よ、これが苦という聖なる真実である。即ち、生まれも苦であり、老いも苦であり、病も苦であり、死も苦であり、愁・悲・苦・憂・悩も苦である。愛しくないものと会うことも苦である。愛しいものと離れることも苦である。欲求するものを得ないのも苦である。略説すれば、五取蘊も苦である。

 
苦のそれぞれは次のようになります。
・生苦:生まれる苦(生まれること自体が苦)
・老苦:老いる苦、衰える苦
・病苦:飢える苦、渇く苦、病気・不健康になる苦
・死苦:死ぬ苦(死ぬこと自体が苦)

・愁:苦に触れた際の愁い・内なる愁い・内に広がる愁い
・悲:苦に触れた際の嘆き・悲嘆
・苦:身の苦しみ・身の不快・身に触れて生じる苦しい不快の感受
・憂:心の苦しみ・心の不快・意に触れて生じる苦しい不快の感受
・悩:苦に触れた際の悩乱・悩み・悩乱の状態・悩みの状態

・愛別離苦:親しい者との別れる苦、馴れ親しんだ場所と離れる苦
・怨憎会苦:嫌いな者との出会う苦、好ましくない場所に身を置く苦
・求不得苦:こうあって欲しいと、求めても願うものが得られない苦
・五蘊盛苦:五つの執着対象(心身)の集合、つまり前記の七苦すべてを総括した苦しみであり、生きて活動する苦


生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦は四苦八苦とも呼ばれ、苦諦とは人生(輪廻転生)とは苦そのものであることになります。

 

○集諦(集聖諦)

比丘達よ、これが苦の集(生起)という聖なる真実である。即ち、再生を齎し、喜・貪を伴い、ここ彼処において歓喜するところの渇愛、いわゆる欲愛、有愛、無有愛である。

 

輪廻の再生(四苦八苦)をもたらす根本的な原因は渇愛であると言うことです。渇愛とは、喜悦と貪りを伴ってあれこれに歓喜する欲愛・有愛・無有愛です。欲愛は感覚的な快楽を過度に求めることや不快を過度に避けること、有愛は自我の永遠不変を求めること、無有愛は自我の絶対断絶を求めることです。

 

そして、これら渇愛が生じてとどまる場所は次のようになります。

・六根:{眼・耳・鼻・舌・身・意}
・六境:諸々の{色・声・香・味・触・法}
・六識:{眼・耳・鼻・舌・身・意}の識
・六触:{眼・耳・鼻・舌・身・意}の接触
・六受:{眼・耳・鼻・舌・身・意}の接触から生じる感受
・六想:{色・声・香・味・触・法}に対する想(表象)
・六思:{色・声・香・味・触・法}に対する思(思考)
・六欲:{色・声・香・味・触・法}に対する欲(欲求)
・六尋:{色・声・香・味・触・法}に対する尋(具体的考察)
・六伺:{色・声・香・味・触・法}に対する伺(抽象的考察)

 

六根、六境、六識については、以下もご参照ください。
https://buddism.club/terms

 

当時の出家者たちの一般常識としては、輪廻生存の直接の原因は善悪の動機付けに基づく行為(カルマ・業)でした。

我々はどうして善悪の業を起こすのでしょうか?それは、そうしたいと思うからそうするのであって、つまり業は我々の「欲望(過度の欲求)」を原因として起こるものだということです。

釈尊の瞑想の師であったアーラーラ・カーラーマ仙人やウッダカ・ラーマプッタ仙人なども含め、当時瞑想の道を歩んでいた人々は感情や思考を停止状態に持ち込むことで、欲望の滅を目指したと考えられます。これに対して、苦行難行は身を苛み、極度の禁欲で心を鍛えることによって、欲望を欲求全般もろとも力づくで抑え込むということを目的としたものでした。

上記で言うと、渇愛が生じる場所そのものを否定する方法と言えると思います。しかし、それはかえって掉拳(昂り)という煩悩を増上させる結果となります。

 

苦・楽に偏らない中道を実践した釈尊は輪廻転生の原因を、顕在的な欲望の更に奥にある根本的な渇愛(潜在的な欲望)であると見抜くに至りました。

渇愛(癡・無明)→欲望(貪欲と瞋恚)→善悪の業→輪廻(苦)