パーリ仏典中部にて説かれる、釈尊のマールンキヤプッタへの説法にて釈尊が形而上学的概念に対して沈黙(無記)を保った理由が明かされています。
釈尊はそのような形而上学的概念をただ頭で分かったところで、目の前にある苦しみや来世における輪廻の苦しみからの解放に役立たないことを説きます。また、上辺だけの知識で他者を導けるはずもなく、ただ反論者との不毛な議論へと発展してしまうだけです。
ここでのマールンキヤプッタの釈尊への言葉は、毒矢を射られた患者が医者に対して、「この毒矢を抜く前に、毒矢を射た犯人の特徴や用いられた矢や弓の弦の素材を教えてください!」と必死に訴えている状況に例えられています。言うまでもなく、毒矢を抜いて手当を受けることが先決で、犯人や弓矢の素材を知るのはその後です。
形而上学的概念を頭で考えて理解して、議論し合っても何も得られるものはありません。それよりも、目の前にある苦悩と向き合い、修行することで、自身が経験できる範囲も拡がり、自ずとその答えも分かるということでしょう。