釈尊が仮に、生天思想や輪廻思想に本来は否定的であったと仮定した場合、釈尊の覚りとはどのようなものだったと考えられるか?について、西田幾多郎の哲学を参考に筆者の勝手な一私見を書いたものが下記の記事になります。
西田幾多郎は個人の死後について、個人の死がその人の死において完全な終わりというわけではなく、社会・文化・人類歴史の流れ等の中でその存在が継続すると考えました。その存在が社会や文化と密接に関連し、さらにはそれらに貢献することによって本質的な意味を持つという考え方に基づいているといえます。故人は歴史的生命(歴史的遺産)となって、それを受け取った次世代の人達を発展させると同時に、その次世代の人達が歴史的遺産を発展させる、そこに歴史の形成がある、即ち社会・文化・歴史とは、生人と故人が作り上げていくものであると言えると思います。生命とは個人の肉体や精神(五蘊)ではなく、このような共同体を真の自己とするものであるということになります。こう考えるならば、五蘊無我も言葉の通りに受け取れますし、衆生の死後も如来の死後の世界も語る必要はないでしょう。
今回は、上の記事の続きを書きたいと思います。上の記事に引き続き、今回の内容もあくまで筆者独自の仏教観に基づくものであり、学術的な仏教の教説や西田哲学とは異なるものであることを再度述べておきます。
人(生命)が死後、歴史的生命になるまでには段階があると、筆者は考えました。永六輔氏の言葉に「人間は二度死ぬ。一度目は肉体の死、二度目は遺された人々の記憶から消えた時。」というものがあります。これを参考にしてみます。
○一度目の死後
人が肉体の死を迎えた時、その人は自身の肉体を離れ、「自分が心から大切に想う人々」や「自分を心から大切に想ってくれる人々」の心の中へとその居住地を移すのではないかと思います。失うものは何もない。ここで、大乗仏教の唯識思想の智慧をお借りします。
大乗仏教の一派である唯識派は、我々が経験するすべての現象が心の所産であり、外界の実在ではないという思想を展開します。私達皆それぞれに阿頼耶識(アーラヤ識)=心という深層意識があって、そこにある種子が主観と客観というこの世界を作り出していることになります。外界が存在せず、この世界が私達の阿頼耶識の種子が造り出している表象に過ぎないのなら、何故私達に共通の認識というものが生じうるのか?それは、私達の阿頼耶識に「共相種子」という共通の認識を生じさせる種子があり、それれが互いに相互限定することで目前の世界が顕現しているからです。故に、唯識思想では直観も想起も同様に種子に基づくものであり、大きな相違はなくなります。
自分の阿頼耶識の中に「自分の身体を構成する種子」と「他者の身体を構成する種子」があり、同時に、他者の阿頼耶識の中にも「自分の身体を構成する種子」が存在していることを意味しており、自分の身体というものは自分と他者の種子より成り立つものであることが分かります。自分の阿頼耶識内に自分自身の肉体を構成維持し続ける種子を失った者(肉体の死を迎えた者)の身体は「自分が心から大切に想う人々」や「自分を心から大切に想ってくれる人々」の共相種子を主な拠り所にすると考えます。そして、遺された者達が故人を思い出した時に、その人は蘇ります。記憶の中で生き続ける故人もまた本物のその人なのです。
○二度目の死後
自分が心から大切に思う人々、自分を心から大切に思ってくれた人々も全員亡くなった時に人は、社会(国家)・文化・歴史の流れを身体とする完全な歴史的生命(歴史的遺産)の共同体に入って新たな活動を再開するものだと思います。在家者から出家者になるようなものなので、厳密には「二度目の死」という表現は不適切なのかも知れませんが、分かりやすくするためにこう表現します。
一度目の死を迎えた後の故人はまだ生人と同じく個物側に属しており、二度目の死を迎えた後に一般者側へ移動するものと考えています。個物同士が一般者を作り、一般者が個物同士を作るところに、歴史の創造がある、その関係は釈尊時代の僧団のようです。
個物に該当する在家の優婆塞・優婆夷が、一般者に該当する遊行する出家の比丘・比丘尼に布施をし、比丘・比丘尼が優婆塞・優婆夷に法を説いて導くところに僧団の歴史の創造があります。
人は一度目の死で、他者の心の中という家に住む在家の故人となり、二度目の死で出家の故人となるイメージです。
○自力と他力
原始仏教における四向四果を、一般者側である完全な歴史的生命の共同体(上記の出家の故人)としての階梯であると仮定した場合、瞑想修行などは生前にそれを自力で覚る手段と考えることができます。しかし、大半の人は生前にこの領域を覚ることが非常に困難なので、死後に「自分が心から大切に想う人々」や「自分を心から大切に想ってくれる人々」との縁を拠り所に他力で徐々にそれを覚っていくものと筆者は思います。自力が難行道であるのに対し、他力は易行道です。「縁」の力は絶大なのです。
人は何を果たすために生きているのか、このような他力の道に基づくならば、それは誰かに自分の想いを伝えて残すことだと思います。自分のこと、自分の想いを忘れずに憶念してくれる人々に巡り会えたなら、死は恐れる必要はないものだと思います。
それでも遺された者達の悲しみは深いですね。しかし、悲嘆の深さは愛の深さの表れです。人は恩愛と友誼の情に引かれるものの、老いと病と死によって必ず別れの時が来てしまいます。その時に襲いかかる深い悲しみ(愛別離苦)は、大切な故人に「私の心の中へようこそ」「私の心の中にも遊びに来てね」という愛情の裏返しなのだと思います。その悲しみも大切に受け止めていける強さが欲しいですね。