大乗仏教の経典『仏説無量寿経』(浄土三部経の一つ)に「有無同然」という思想が登場します。
世の人は浅はかで、急ぐ必要のないことを争い求める。この烈しい悪と苦痛の中で人々は日常の営みに身を苦しめ、働き、自分の生活にあくせくしている。
身分の高い者も低い者も、貧しい者も富める者も、老いも若きも、男も女も、悉く皆、金銭・財貨に心を煩わす。持てる者も、持たざる者もその憂き思いに変わりはない。うろうろと愁え苦しみ、心配ばかり積み重なり、心は追い回されて安らぐ時がない。人々は寒気・熱気に苦しめられ、苦痛と同居している。
貧しく、困窮し、下劣な人々は困苦欠乏して常に持たない。田がなければ田が欲しいと思い、家がなければ家が欲しいと思い、金銭・財貨・衣服・食物・家具がなければまたこれらを欲しいと思う。
たまたま、その中の一つがあるときは、また他の一つが欠け、これがあればあれが欠け、全てを他人と等しく持ちたいと願う。たまたま願いのまま具わるかと思えば、忽ちまた散り失せるのだ。憂い苦しむこと、このようである。
また、いくら求めても得られぬときもある。そんな時はいくら思い惑うても無益であり、身心ともに疲労し、立ち居も思うに任せぬようになる憂いの思いが次々と起こって苦しむこと、このようである。
『浄土三部経〈上〉無量寿経』中村 元、紀野 一義、早島 鏡正 著より引用
世の中の姿をよくよく見てみると、貧しき者、富める者、老いも、若きも、男女の関係なく、金銭や財産などを求めて苦しんでいることが分かります。
土地や家屋が無ければそれらを求めて苦しみ、有れば有ったで管理や維持のためにまた苦しんでいます。それだけでなく、名誉や地位、家族や衣食に至るまでありとあらゆるものを、無ければ無いことに苦しみ、有れば有ることに苦しんでいます。
釈尊は、有る者は金の鎖、無い者は鉄の鎖につながれているようなものであると説きます。自身を縛るものが金でできているからといって喜べる道理はありません。それが金でできていようと、鉄でできていようと、憂い苦しんでいることに変わりないでしょう。このことを釈尊は「有無同然」と説きました。
しかし、我々はそんな自分達の状態を頭の中でしか自覚できておらず、無自覚に自分が苦しむのは「金がないからだ(多忙だからだ)。」「今持っている資産を守らねばならないからだ(多忙だからだ)。」「こんな家族を持ったからだ。」「職場の人間関係が悪いからだ。」「分かってくれる人が周りにいないからだ。」「自分が駄目な人間だからだ。」などと思ってしまうことでしょう。
しかし、それらは苦しみの根源ではないのです。苦しみの原因は無明の闇に覆われ、他者と自己を完全に置き去りにして空っぽの心身(自我)のまま突っ走っている己の暗い心にあるのだと思われます。その暗い心を知り、闇を取り除かない限り、真の幸せを得ることはできないということでしょう。
○八風吹けども動ぜず
沈黙せる者も非難され、多く語る者も非難され、すこし語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
ただ誹られるだけの人、または褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう。また現在にもいない。
もしも心ある人々が善と悪とを一つ一つ考察して或る人を称賛するならば、その称賛は正しく説かれたものである。しかし、無智なる人々はかれを称賛しない。
『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元 著より引用
「八風吹けども動ぜず」という禅語があります。八風とは人の心を惑わし、あおりたてる下記の八つのものを指します。
・利(利益をもたらすもの)
・衰(利益をそこなわせるもの)
・毀(陰で誹られること)
・誉(陰で褒められること)
・称(目の前で褒められること)
・譏(目の前で誹られること)
・苦(心身を悩まされる状況)
・楽(心身を喜ばさせる状況)
我々は常にこうした相反する風に吹かれて生きていくのですが、暗い心は風が変わるたびにグラグラ揺れています。ドイツの哲学者ショーペンハウアーが「(人生は)苦痛と退屈の間の振り子運動」と表現した理由がよく分かります。八風に揺れない不動の明るい心を身に付けたいものです。