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【原始仏教】四向四果Ⅱ ~預流・一来・不還・阿羅漢~

「四向四果(四双四輩)」の詳細を、今回は見ていきたいと思います。最初に、我々衆生(生命)を欲界・色界・無色界といった輪廻の生存(苦悩)へ繋ぎ止める潜在煩悩である「五下分結」と「五上分結」に触れておきたいと思います。

 

五下分結:衆生(生命)を欲界に繋ぎ止める潜在煩悩

欲貪:欲界における心に叶う対象に対する強い欲望
瞋恚:心に叶わない対象に対する強い嫌悪
有身見:心身を「我」や「我が物」であるとする見解
戒禁取見:正しくない戒律、規制や信仰等を優れた真理とする見解
疑惑:猜疑心。善法や真理の教えを疑うこと

 

五上分結:衆生(生命)を色界・無色界に繋ぎ止める潜在煩悩

色貪:色界における心に叶う対象に対する強い欲望
無色貪:無色界における心に叶う対象に対する強い欲望
慢心:我を想定し、我と他者を比較することで抱く優越感や劣等感
掉拳:過度に心が昂った状態
無明:愚癡や迷妄と同義で、全種の煩悩の根源

 

 

○預流向→預流果

三つの束縛を滅ぼし尽くしたから、「聖者の流れに踏み入った人」であり、悪いところに堕することの無い決まりであって、必ず覚りを達成するはずである者

 

三つの束縛とは五下分結の「有身見・戒禁取見・疑惑」です。

七回生まれ変わるまでには完全に覚れ、輪廻するのは人界か天界のみであり、他の悪趣には至らないとされます。

つまり、七回生まれ変わる生涯の中で六重罪(五逆罪・誹謗正法の罪)を犯すことはないということです。五逆罪とは、それを犯したら来世は必ず地獄行きとなる五つの重い罪であり、父親殺し、母親殺し、阿羅漢殺し、如来の身体に怪我をさせて流血させること、サンガ(僧団)の和合を乱して分離させることです。

 

○一来向→一来果

三つの束縛を滅ぼし尽くしたから、欲貪と瞋恚と無明が漸次に薄弱となるが故に、一度だけこの欲界の生存に還って来て、苦しみを滅ぼし尽くすであろう者

 

一来とは、一回だけ欲界(ただし、人界か天界)に来るという意味です。そこで、完全に覚れると言われます。

預流果になって、更に修行を進めると、その人には第二の覚りが開けます。一来果の人は五下分結における過剰な欲(欲貪)や強烈な怒り(瞋恚)が消えることはないのですが、弱まるのです。

 

○不還向→不還果

欲界に結びつける五つの束縛(五下分結)を滅ぼし尽くしたので、一人でに生まれて、そこで涅槃に入り、その世界からもはや還って来ることが無い者

 

不還とは、もう欲界に戻って来ないという意味です。不還果になった人は欲貪と瞋恚は二つとも消えます。

アビダルマ仏教で扱う煩悩(結)のリストには更に問題となる嫉妬と物惜しみ(慳貪・吝嗇)も不還果で消えるとあります。しかし、自と他を比較する心の働きである過度な慢心は生まれるかも知れないということです。

不還の者は死後、「浄居」という梵天になりますが、この梵天は普通の梵天とは異なり、聖者のみが存在する次元であると言われています。この浄居で修行を続け、完全に覚れると言われています。

 

○阿羅漢向→阿羅漢果

諸々の汚れが消滅したが故に、既に現世において汚れの無い「心の解脱」「智慧による解脱」を自ら知り、体得し、具現した者

 

輪廻転生からの解脱(完全な覚り)です。阿羅漢になって初めて消える煩悩は色貪、無色貪、慢心、掉拳、無明の五上分結です。

全ての煩悩は無明に基づいており、無明から発生します。煩悩は一つしかないと言うのでしたら、無明しかなく、無明であるから貪る、過度に怒る、嫉妬する、物惜しみするのです。

一度、覚りを獲得して阿羅漢となっても、そこから退いてしまう者とそうでない者に分かれます。前者を慧解脱や時愛心解脱の阿羅漢といい、潜在煩悩を断ったものの、新たに生じ続ける顕在煩悩への耐性が十分でないために、再び顕在煩悩が潜在化する可能性があります。

後者を倶解脱や不時解脱(不動心解脱)の阿羅漢と呼び、潜在煩悩を断ち、新たに生じ続ける顕在煩悩への耐性も十分に具えているため退くことはありません。後者が輪廻転生から完全に解脱した者です。

原始仏教を西田幾多郎の哲学から考えてみた 〜本当の仏教は死後の世界を語らない?〜

日本の仏教学者の中には、釈尊は本来、輪廻という思想に否定的であったとする意見もよく見受けられます。

 

この説に基づくならば、当時、釈尊が説法した時代のインドでは、「生天」や「輪廻」といった思想が強く人々の中に根付いて(民衆の一般常識となって)いたため、人々へ説法する以上は人々の一般常識からスタートするしかなかったということでしょう。

 

この説を支える点として、釈尊は出家者に対して死後の世界の有無を積極的に語らろうとしなかったこと(無記)、そして輪廻の主体としての我(アートマン)の無(無我)をそのまま言葉の通りに受け取ることができることが挙げられます。しかし、四諦・十二縁起・四向四果のような中心理論の中に、当然のように輪廻が出てくる以上、この説が簡単に受け入れられることはないでしょう。

 

今回は、仮に釈尊が輪廻思想を本来の立場からは認めていなかったと仮定した場合、釈尊の覚りとはどういうものだったと考えられるか?あくまで、筆者の勝手な一私見を書いてみたいと思います。

 

最初に、西田幾多郎(1870-1945)の知恵をお借りしたいと思います。

西田幾多郎は個人の死後について、個人の死がその人の死において完全な終わりというわけではなく、社会・文化・人類歴史の流れ等の中でその存在が継続すると考えました。その存在が社会や文化と密接に関連し、さらにはそれらに貢献することによって本質的な意味を持つという考え方に基づいているといえます。

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故人は歴史的生命(歴史的遺産)となって、それを受け取った次世代の人達を発展させると同時に、その次世代の人達が歴史的遺産を発展させる、そこに歴史の形成がある、即ち社会・文化・歴史とは、生人と故人が作り上げていくものであると言えると思います。生命とは個人の肉体や精神(五蘊)ではなく、このような共同体を真の自己とするものであるということになります。

 

こう考えるならば、五蘊無我も言葉の通りに受け取れますし、衆生の死後も如来の死後の世界も語る必要はないでしょう。

 

若き日のアーナンダ長老は、目前に迫る釈尊の死を実感して泣いていました。そんな長老に釈尊が説いた説法が下記でした。

アーナンダよ、あるいは後にあなた達はこのように思うかも知れない。『教えを説かれた師はましまさぬ、もはや師はおられないのだ。』と。しかし、そのように見なしてはならない。あなた達のために私が説いた教えと私の制した戒律とが、私の死後にあなた達の師となるのである。

『ブッダ最後の旅:大パリニッバーナ経』中村元 著より引用

アーナンダ長老のそれからの人生は、故人となった釈尊と一緒に作られていったのかも知れません。

 

もし仮に、釈尊が到達した覚りの境地がこのような共同体の最深層だったと仮定した場合、瞑想修行とはこのような共同体を直接体験する手段であることになるかと思います。そして、方便として生天説や輪廻説を受け入れて説いた理由も、人々に善行を勧めるそれらの説が自身の本来の覚りとも相容れるものだったためと考えることができるかと思われます。

 

『パーリ仏典 相応部』より:
善き友をもつこと、善き仲間のいること、善き人々に取り巻かれていることは、清浄行の全体である。善き友である修行僧については、このことを期待することができる。善き友、善き仲間、善き人々に取り巻かれている修行僧ならば、八つの正しい道を修めることになるであろう。そうして八つの正しい道を盛んならしめるであろう。

『ブッダ神々との対話ーサンユッタ・ニカーヤ1』中村元 著より引用

『パーリ仏典 相応部』より:
比丘たちよ、遊行しなさい。多くの人々の利益のため、多くの人々の安楽のため、世界への憐みのため、人・天の繁栄のため、利益のため、安楽のためにです。

『ブッダのことば パーリ仏典入門』片山一良 著より引用

善き仲間に取り巻かれる修行者は八正道を盛んにできる理由、より多くの人々の安楽のため弟子達と共に遊行生活に入って仏法を説いて回った釈尊の慈悲、何より故人となった大切な人を身近に感じることができ、筆者はこのような視点から原始仏教を考えていくのも個人的に好きです。

 

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【原始仏教】四向四果Ⅰ ~他者への説法(順々の話)~

原始仏教の教団は、比丘・比丘尼、優婆塞・優婆夷の四衆から成っていました。前の二つは出家僧の男女であり、後の二つは在家信者の男女です。

 

出家者は社会的義務を離れて遊行生活に入り、二百カ条を超える戒律に従って身を処しました。一方、在家者は社会の中にあって稼業にいそしみ、家族を扶養し、五戒を守りながら社会的な義務を果たしました。

 

在家と出家が同程度に修行の成果を修めることはほぼ不可であったでしょうが、在家の信者の中にも出家者に劣らぬ信念と知識を持ち、その優れた生活態度を釈尊に称賛された人々も数多くいたようです。ウグラ(郁伽)居士が有名であり、彼は大乗仏教においても在家の菩薩の理想像として受け継がれ、『維摩経』の主人公であるヴィマラキールティ(維摩詰)のモデルではないかとも。

 

〇他者への説法方法(順々の話)

●「施・戒・天」の『三論』

・生天

「布施」の話に続いて「戒め」の話を、続いての「生天(幸福)」の話です。布施を行い、五戒を守るならば、その福徳によって死後天の世界に生まれることができるというもので、仏教本来の立場とは異なる教えですが、在家信者の多くはこの段階に満足していたようです。幸福を求めての生天であり、輪廻からの解脱を求めての生天ではありません。

●「戒・定・慧」の『三学』

少欲論・知足論・不交際論・戒論の「増上戒学」、遠離論・努力精進論・定論の『増上心学』、慧論・解脱論・解脱智見論の「増上慧学」に配して説明されました。輪廻からの解脱を目指したもので、ここからが仏教本来の立場からの説法です。

・預流

預流果へ至った者は七回生まれ変わるまでには完全に覚れ、輪廻するのは人界か天界のみであり、他の悪趣には至らないとされます。

・一来

一来果へ至った者は死後、人界か天界に生まれ、再び人界か天界に戻って完全に覚れます。

・不還

不還果へ至った者は死後、五浄居という天界に生まれ、そこで完全に覚れます。

・阿羅漢

現世で完全に覚った者が阿羅漢果へ至った者で、二度と輪廻することがありません。

 

 

預流、一来、不還は現世において阿羅漢果に到達できなかった修行者達が更に修行を続けるために来世を期するものですが、これもある意味で「生天」とも言えます。しかし、この場合は転生先が天界と人界に限られており、従来の「生天」とは異なります。預流、一来、不還における特殊な「生天」思想は後の大乗仏教の浄土往生の思想に繋がったと思われます。

 

生天、預流・一来・不還、阿羅漢に応じて、釈尊の説法の仕方も内容も変わってくるでしょう。