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【原始仏教】十二縁起 ~渇愛 未来の息子・娘と両親~

「無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死」という十二縁起(十二因縁)説には、実に様々な解釈があります。

ここではあまり知られていない解釈、しかしおそらく本来の十二縁起はそのようではないかという解釈を紹介します。

 

まず、仏教では、有情が生まれて死んで再生するまでの期間を「生有・本有・死有・中有」の四有に分類します。生有=誕生の瞬間、本有=誕生から死亡までの期間、死有=死亡の瞬間、中有(中陰)=死亡から再生までの期間です。日本仏教では葬儀などの際、亡くなって四十九日の間を中有と説明されますが、実際は死んでから次に再生するまでの状態のことを指します。十二縁起の主な舞台はこの中有の期間であると考えられます。

 

この中有期間における我々は香を食すという意味で香陰(ガンダルヴァ)=乾闥婆とも言われます。本来、ガンダルヴァとはインド神話に登場する半神半獣で、インドラ(帝釈天)の宮殿で音楽師を努めます。男性ガンダルヴァと女性ガンダルヴァが存在し、結婚後も他の異性と自由に愛し合い、また人間の夫婦の夜の営みをうかがう好色神でもあります。

 

さて、四十九日を終えた香陰は完全なる四肢・感官(六処)を具える霊的な意成身を有し、虚空をさまよい、自身と縁ある男女(後に父母となる男女)の交合の場に飛んできます。そして、父母となる男女の交合に自身も参加し、そのまま受精卵を我が肉体として享受することになり、受胎が成立します。

パーリ仏典にもこのように説明があります。

三者の和合によって受胎が起こります。比丘たちよ、母と父との交合がある、また、母に月経がある、また、ガンダッバが現れている。このように三者の和合があれば受胎が起こります。

 

十二縁起における「六処」というのは香陰の身体のことであり、「取」→「有」が上記の過程と思われるのですが、このように解説された書籍があまり見受けられないのが不思議です。

『岩波文庫 仏教(下)ベック著』にその解説があります。また、三島由紀夫(1925-1970)の小説『豊饒の海』におそらく「阿毘達磨大毘婆沙論」を参照にしたと思われる、香陰の解説が登場しています。

三島由紀夫の『豊穣の海』は『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の全四巻から構成される長編小説で、輪廻に関する古今東西の哲学をはじめ、特に物語の骨格となる大乗仏教の唯識思想(無著の唯識を中心)について詳細に調べ込まれています。香陰に関する説明が登場するのは『第二巻 奔馬』です。

 

“六処・触・受・渇愛”というのは、肉体的に組織された個人的ないし人間的な存在者の心のはたらきというのではなく、たかだか超感性的ないし心霊的存在者の心のはたらきを言うのである。そのような心霊的存在者が受胎の際にはじめて“存在”となり、感性的ないし物質的な現存と結合するのである。仏教ではガンダルヴァ〔乾闥婆、香陰〕と名づけられる。注目すべきことに、『中部経典』第三八経は主として縁起を扱っている重要な経典であるが、そこではやはりガンダッバgandharva〔香陰〕に言及している。そこで説かれることによると、人間の肉体が成立する際に、父と母との共同作業のみではなく、その他に超感性的ないし心霊的存在者が上方の世界から降りてきて参加するという。

『仏教(下)』ベック著より引用

仏説によれば、中有はただの霊的存在ではなく、五蘊の肉体を具えていて、五六歳ぐらいの幼な児の姿をしている。中有はすこぶるすばしこく、目も耳もはなはだ聡く、どんな遠い物音もきき、どんな障壁も透かして見て、行きたいところへは即座に赴くことができる。人や畜類の目には見えないが、ごく浄らかな天眼通を得た者の目だけには、空中をさまようこれら童児の姿が映ることがある。透き通った童児たちは、空中をすばやく駆け廻りながら、香を喰ってその命を保っている。このことから、中有または尋香(じんこう)と呼ばれ、その原語はgandharvaであり、その音表は健達縛(けんだつば)である。
童子は、こうして空中をさすらいながら、未来の父母となるべき男女が、相交わる姿を見て倒心を起す。中有の有情が男性であれば、母となるべき女のしどけない姿に心を惹かれ、父となるべき男の姿に憤りながら、そのとき父の洩らした不浄が母胎に入るや否や、それを自分のもののように思い込んで喜びにかられ、中有たることをやめて、母胎に託生するのである。その託生する刹那、それが生有である。

『豊饒の海 第二巻 奔馬』三島由紀夫 著より引用

男性の香陰が母胎に入るときには、母に貪欲の念を起こし、父に対しては瞋恚(嫉妬)を起こし、女性の香陰が母胎に入るときには、父に貪欲の念を起こし、母に対しては瞋恚(嫉妬)を起こします。これが十二縁起における「愛(渇愛)」と思います。


男性の香陰は母に欲心を起こすため、邪魔者の父を疎ましく憎らしく思います。そこで、父をはねのけて、自分が母と交合しているという「顛倒の想い」を起こします。女性の香陰の場合は逆になります。これが十二縁起における「取」であると考えられます。そうして二者の和合の中に飛びこみ、そこで受胎(受肉)が成立してしまう、これが十二縁起における「有」でしょう。

 

十二縁起って意外に面白い内容だと思います(笑)。異性の我が子に好きな人ができたり、結婚相手ができたりすると異性の親は寂しさというか、取られたという想いを抱いてしまうことがあるのは、無意識下にこの時の記憶があるためなのでしょうか?う〜ん…どうなのですかね…

【原始仏教】初転法輪⑤ 五蘊無我Ⅱ ~仏教の無我も空も虚無ではない~

五蘊無我(五蘊非我)について、パーリ仏典相応部で次のような説法があります。初転法輪では、四諦・八正道でなく、こちらが説かれたとする説もあります。

釈尊:

「比丘達よ、{色・受・想・行・識}は我ならざるものである。もしも、{色・受・想・行・識}が我であるならば、この{色・受・想・行・識}は病にかかることはないであろう。

また、{色・受・想・行・識}について、『我が{色・受・想・行・識}はこのようであれ。』とか、『我が{色・受・想・行・識}はこうあることがないように。』となし得よう。

しかるに、比丘達よ、{色・受・想・行・識}は我ならざるものであるから、{色・受・想・行・識}は病にかかり、また、{色・受・想・行・識}について、『我が{色・受・想・行・識}はこのようであれ。』とか、『我が{色・受・想・行・識}はこうあることがないように。』となし得ないのである。」

釈尊:

「比丘達よ、汝らは次のことをどう考えるか。{色・受・想・行・識}は常住であるか、あるいは無常であるか。」
五比丘:
「尊師よ、無常であります。」
釈尊:
「では、無常なるものは苦であるか、楽であるか。」
五比丘:
「尊師よ、苦であります。」
釈尊:
「では、無常であり、苦であり、変壊する性質のあるものをどうして、『これは我がものである。(我所執)』とか、『これは我である。(我執)』 とか、『これは我がアートマンである。』と見なされようか。」 
五比丘:
「尊師よ、そんなことはできません。」
釈尊:
「比丘達よ、それ故にあらゆる{色・受・想・行・識}、すなわち過去・未来・現在の、内・外、粗雑・微細、勝・劣、遠・近を問わず、全ての{色・受・想・行・識}について、『これは我がものでない。』とか、『これは我でない。』とか、『これは我がアートマンでない。』と、このようにこれをありのままに正しい智慧によって観察すべきである。

比丘達よ、このように観察し、教えを学ぶ聖なる弟子は色蘊を厭い離れ、受蘊を厭い離れ、想蘊を厭い離れ、行蘊を厭い離れ、識蘊を厭い離れる。厭い離れた時、貪りを離れる。貪りを離れるから解脱する。解脱したとき、『我は解脱した。』と知る者になる。即ち、『輪廻の生まれは尽きた。清らかな行い(梵行)は修められ、なすべきことはなし終えた。もはや、このような迷いの生存を受けることがない。』と覚るのである。」

『ゴータマ・ブッダ』早島鏡正 著より引用

 

この教えを聞いた五比丘は心から喜び、彼らは執着なく、煩悩の汚れから心解脱しました。つまり、世間に六人の阿羅漢がいることになったと説かれています。

 

仏教学者の中村元氏も各著書で述べるように、釈尊は「五蘊は我ではない」としか説いていないように思います。刹那刹那に生じては滅する五蘊、その非連続を連続として統一する存在がなければ我々の自我同一性は成り立たないでしょうし、そしてさらには輪廻転生の思想を説くのであれば十分に説明ができないはずです。

 

原始仏教では「無為なる自己」は無いとは説かれていません。有為なる人の五蘊(身心)を問題にし、「無為なる自己はこれでもない、あれでもない」と述べてあるだけです。パーリ仏典小部『ダンマパダ』にて、釈尊は涅槃を「自己の沈黙」と表現していました。これはいわば無分別の自己、自身の自己と他者の自己が繋がり、多であると同時に一であるそんな境地ではないかなと思うのです。

 

善悪の行為の主体であるからこそ、修行者は真の自己(無分別の自己)を求めて修行に励み努めなければならない、これは大乗仏教でも如来蔵(仏性)、光り輝く心、有垢真如、在纏位の法身といった言葉で再登場します。

 

○三法印

釈尊の三法印とは以下のようではないかと筆者は考えています。

涅槃寂静:

輪廻から解脱した境地において、「自己」の沈黙を自ら知るがままに、形からも、形無きからも、一切の苦しみから全く解脱する

諸法無我:

五蘊即ち、あらゆる現象そして身心もまた真の自己ならざるものである

諸行無常:

・(心身を含む)すべての作られたもの(諸法の中で作られたもの)は無常(移り変わるもの)である 

・おおよそ、生ずる性質のあるものは、滅びる性質のあるものである

→此縁性(イダッパッチャヤター):

「これが有るとき、かれが有る」  

「これが生ずることにより、かれが生ずる」  

「これが無いとき、かれが無い」  

「これが滅びることにより、かれが滅びる」

【原始仏教】初転法輪④ 五蘊無我Ⅰ ~欲界、色界、無色界の自我~

初転法輪では、「四諦・八正道・四諦三転十二行相」について説法が行われたとする説もありますが、もう一方で「五蘊無我(五蘊非我)」についての説法が行われたとする説もあります。

 

五蘊無我(五蘊非我)や三転十二行相の話に入る前に、我々が自分であると誤解してしまっている「自我」について触れておきたいと思います。パーリ仏典において、自我への一層深入りした考察は、長部経典の「ポッタパーダ経」に登場しています。そこではまず自我を三種類に区別しています。

 

ポッタパーダ:
「尊師よ、想は人の我なのでしょうか。それとも、想と我は異なるものなのでしょうか。」
釈尊:
「ポッタパーダよ、そなたは我をどのように了解しますか。」
ポッダパーダ:
「尊師よ、私は我を、粗い、色があり、四大要素からなり、(母と父から生まれ)、物質食を食べるものと了解します。」
釈尊:
「ポッタパーダよ、たとえ、この我が粗い、色があり、四大要素からなり、(母と父から生まれ)、物質食を食べるものであっても、その場合、この人の諸々の想は別に生じ、また諸々の想は別に消滅するのです。ポッタパーダよ、この理由によって想と我は異なるものになるということが知られねばなりません。」
ポッタパーダ:
「尊師よ、私は我を、(色があり)、意からなり、大小すべての四肢があり、欠けるところの無い感官を備えたものと了解します。」
釈尊:
「ポッタパーダよ、たとえ、この我が(色があり)意からなり、大小すべての四肢があり、欠けるところの無い感官(五根)を備えたものであっても、その場合、この人の諸々の想は別に生じ、また諸々の想は別に消滅するのです。ポッタパーダよ、この理由によって想と我は異なるものになるということが知られねばなりません。」
ポッダパーダ:
「尊師よ、私は我を、色の無い、想からなるものと了解します。」
釈尊:
「ポッダパータよ、たとえ、この我が色の無い、想からなるものであっても、その場合、この人の諸々の想は別に生じ、また諸々の想は別に消滅するのです。ポッタパーダよ、この理由によって想と我は異なるものになるということが知られねばなりません。」

『パーリ仏典 長部(ディーガニカーヤ)戒蘊篇II』 片山一良 訳より引用

 

三種類の自我のうち、第一は粗雑で物質的〔麁〕な肉体の我、第二は精神的〔意所成〕な身体の我、そして第三は精神自体〔想所成〕の我ですね。仏教に詳しい方は、各々の自我が欲界、色界、無色界という世界(三界)に対応していることに気付かれると思います。「貪欲」の煩悩もこの三種の自我にあわせて、欲貪、色貪、無色貪と三種類に分けられます。

 

高度な瞑想技術を体得した修行者達は、第一の自我の段階を超越して第二・第三の自我による世界を体験でき、その経験に基づいて、三種類のうちのいずれかを対象に「これこそが我=アートマン=真の自己である」という高次元での誤認をしてしまうのでしょう。


しかし、釈尊は第一の我想が生じる時、第二と第三の我想は消えるといったように、或る我想が生じる時に他の我想は消えるという特性から、想を我(真の自己)のように考えてはならないことを説明しています。

なぜなら、第一→第二→第三→第二のように各々の我想の生起と消滅があったにしても全体としての自我同一性は保たれているからであり、想を我(真の自己)と考えると矛盾するためです。

 

これは時間的に前後する想と想を繋ぐものが更に上の段階にあるということであり、それが「行蘊」ということでしょう。

「行蘊」(形成作用)は「思」であり、よく意志や動機付けと訳されますが、それはあくまで行蘊が生み出す結果の部分ではないかと思います。

そもそも思考とは認知された事項について、過去の経験や学習で得られた知識と照合し、比較・対照しながら考えを発展させる機能のことです。結果、具体的事項に関する考察(尋)や抽象的事項に関する考察(伺)も生じます。行蘊は新旧の記憶事項を照合・比較して発展させる働きと考えた方が前後の辻褄が合うように思えます。そして、その「行蘊」を更に多くの事項と照合・比較して繋ぐものが「識蘊」であり、これが知情意を司る機能と考えられます。

 

しかし、行も識も我ではなく、色受想行識の集合体も我ではないことが説かれます。続きはまた他の記事に書きます。

 

※補足説明

・四大元素(地・水・火・風)
肉体は、四大要素(地・水・火・風)と四大要素より作られた色形あるものと表現されます。そのため、肉体には以下のように、それぞれの要素があるとします。

地:堅性

髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓、腸・腸間膜・胃物・大便など肉体の堅い、粗い部分。

水:湿性

胆汁、痰、膿、血、汗、脂肪、涙、脂肪油、唾、鼻液、関節液、小便など肉体の液体の部分。

火:煖性

熱、消化、生理作用。

風:動性

呼吸、代謝、活動電位。

 

・意成身(六根)

意からなり、肉体と同じく大小すべての四肢があり、感官(五根)を備えた霊的な身体です。五根とは眼・耳・鼻・舌・身のことで、正根といわれます。一方、肉体上の感官は扶根と言われ、現代で言う原子や分子(四大元素)から成り立ち、例えば、眼で言うならば、角膜・水晶体・網膜などから成り立つ器官です。それに対して正根は微細な感覚器官であり、真の感覚器官としての能力は肉体の扶根ではなく、意成身の正根が有することになります。