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【原始仏教】初転法輪① 四諦の苦諦と集諦 〜四苦八苦〜

 

釈尊は自らの覚りを他者へ説法することを決めました。瞑想の師匠であったアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人は既に亡くなっていましたので、仏陀となった釈尊の最初の説法を受けたのはかつて釈尊と共に修行した五人の比丘(コンダンニャ、ヴァッパ、バッディヤ、マハーナーマ、アッサジ)となりました。今回はまず、四諦の苦諦と集諦についてお話します。


○苦諦(苦聖諦)

比丘達よ、これが苦という聖なる真実である。即ち、生まれも苦であり、老いも苦であり、病も苦であり、死も苦であり、愁・悲・苦・憂・悩も苦である。愛しくないものと会うことも苦である。愛しいものと離れることも苦である。欲求するものを得ないのも苦である。略説すれば、五取蘊も苦である。

 
苦のそれぞれは次のようになります。
・生苦:生まれる苦(生まれること自体が苦)
・老苦:老いる苦、衰える苦
・病苦:飢える苦、渇く苦、病気・不健康になる苦
・死苦:死ぬ苦(死ぬこと自体が苦)

・愁:苦に触れた際の愁い・内なる愁い・内に広がる愁い
・悲:苦に触れた際の嘆き・悲嘆
・苦:身の苦しみ・身の不快・身に触れて生じる苦しい不快の感受
・憂:心の苦しみ・心の不快・意に触れて生じる苦しい不快の感受
・悩:苦に触れた際の悩乱・悩み・悩乱の状態・悩みの状態

・愛別離苦:親しい者との別れる苦、馴れ親しんだ場所と離れる苦
・怨憎会苦:嫌いな者との出会う苦、好ましくない場所に身を置く苦
・求不得苦:こうあって欲しいと、求めても願うものが得られない苦
・五蘊盛苦:五つの執着対象(心身)の集合、つまり前記の七苦すべてを総括した苦しみであり、生きて活動する苦


生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦は四苦八苦とも呼ばれ、苦諦とは人生(輪廻転生)とは苦そのものであることになります。

 

○集諦(集聖諦)

比丘達よ、これが苦の集(生起)という聖なる真実である。即ち、再生を齎し、喜・貪を伴い、ここ彼処において歓喜するところの渇愛、いわゆる欲愛、有愛、無有愛である。

 

輪廻の再生(四苦八苦)をもたらす根本的な原因は渇愛であると言うことです。渇愛とは、喜悦と貪りを伴ってあれこれに歓喜する欲愛・有愛・無有愛です。欲愛は感覚的な快楽を過度に求めることや不快を過度に避けること、有愛は自我の永遠不変を求めること、無有愛は自我の絶対断絶を求めることです。

 

そして、これら渇愛が生じてとどまる場所は次のようになります。

・六根:{眼・耳・鼻・舌・身・意}
・六境:諸々の{色・声・香・味・触・法}
・六識:{眼・耳・鼻・舌・身・意}の識
・六触:{眼・耳・鼻・舌・身・意}の接触
・六受:{眼・耳・鼻・舌・身・意}の接触から生じる感受
・六想:{色・声・香・味・触・法}に対する想(表象)
・六思:{色・声・香・味・触・法}に対する思(思考)
・六欲:{色・声・香・味・触・法}に対する欲(欲求)
・六尋:{色・声・香・味・触・法}に対する尋(具体的考察)
・六伺:{色・声・香・味・触・法}に対する伺(抽象的考察)

 

六根、六境、六識については、以下もご参照ください。
https://buddism.club/terms

 

当時の出家者たちの一般常識としては、輪廻生存の直接の原因は善悪の動機付けに基づく行為(カルマ・業)でした。

我々はどうして善悪の業を起こすのでしょうか?それは、そうしたいと思うからそうするのであって、つまり業は我々の「欲望(過度の欲求)」を原因として起こるものだということです。

釈尊の瞑想の師であったアーラーラ・カーラーマ仙人やウッダカ・ラーマプッタ仙人なども含め、当時瞑想の道を歩んでいた人々は感情や思考を停止状態に持ち込むことで、欲望の滅を目指したと考えられます。これに対して、苦行難行は身を苛み、極度の禁欲で心を鍛えることによって、欲望を欲求全般もろとも力づくで抑え込むということを目的としたものでした。

上記で言うと、渇愛が生じる場所そのものを否定する方法と言えると思います。しかし、それはかえって掉拳(昂り)という煩悩を増上させる結果となります。

 

苦・楽に偏らない中道を実践した釈尊は輪廻転生の原因を、顕在的な欲望の更に奥にある根本的な渇愛(潜在的な欲望)であると見抜くに至りました。

渇愛(癡・無明)→欲望(貪欲と瞋恚)→善悪の業→輪廻(苦)