○道諦(道聖諦)
比丘達よ、これが苦の滅に導く道という聖なる真実である。即ち、聖なる八正道である、正しい見解・正しい思惟・正しい言葉・正しい行為・正しい生活・正しい精進・正しい憶念・正しい瞑想のことである。
比丘たちよ、どのように正見が先行するのか。比丘たちよ、正見の者には正思惟が生じます。正思惟の者には正語が生じます。正語の者には正業が生じます。正業の者には正命が生じます。正命の者には正精進が生じます。正精進の者には正念が生じます。正念の者には正定が生じます。正定の者には正智(正慧)が生じます。正智(正慧)の者には正解脱が生じます。このように、比丘たちよ、八の部分をそなえた者は有学の実践者になり、十の部分をそなえた者は阿羅漢になります。
『パーリ仏典 中部(マッジマニカーヤ)後分五十経篇I』 片山一良 訳より引用
釈尊の教えは智慧と慈悲からなっていると言えるでしょう。それは釈尊が成道前には上求菩提の道に往って仏法を覚り、成道後には下化衆生の道に還って衆生へ仏法を説いて導いたという生涯から伺い知ることができます。仏教の中心である智慧と慈悲、それを支える基礎が縁起の道理、即ち四諦であり、そして八正道の実践です。
ただ、通常考えられているように、智慧=上求菩提と慈悲=下化衆生のように明確に分けられるものではありません。上求菩提にも慈悲が必要であり、下化衆生にも智慧が必要になります。八正道の最後は「正しい瞑想」となっていますが、この正しい瞑想に入るためには、まずそれを妨げる五蓋(貪欲・瞋恚・惛沈・掉拳・疑惑)という顕在的な煩悩を取り除くことが必要になります。
八正道から滅諦までの過程を単純に示すと、
五蓋(顕在煩悩)除去→瞑想の境地(禅定・三昧)→五下分結(潜在煩悩)除去→五上分結(潜在煩悩)除去→阿羅漢(輪廻からの解脱)
※五下分結と五上分結の詳細は別の記事で解説します。
五蓋除去には、慈悲喜捨の四無量心(四梵住)が必要になります。
四無量心
・慈(慈愛):一切の生きとし生けるもの共に利益、安楽がもたらされるように願うこと
・悲(同情):一切の生きとし生けるもの共から不利益・苦しみが除かれるように願うこと
・喜(同慶):一切の生きとし生けるもの共の利益・安楽を共に喜び、彼らの利益・安楽が離れないように願うこと
・捨(不偏):一切の生きとし生けるもの共は皆、業を有していると等しく観て、情に煩わされず、怨親などの差別を捨てて平静・平等となること
ここに取り上げる四無量心(四梵住)は一般に慈悲とされていますが、下化衆生の段階だけでなく、上求菩提の段階から大きく必要になってくる智慧でもあるのです。おそらく、正見から正命までは慈悲喜捨を育成する段階であり、慈悲喜捨の心がそれぞれの反対法となる五蓋の各々を相殺しはじめるまでになった段階が正精進(四正勤)・正念(四念処)と思われます。
▽正見
・布施、献供、供養の果報はある
・善行、悪行の業の果報はある
・母はいる、父はいる
・化生の生ける者たちはいる
・この世とあの世を自らよく知り、目の当たりに説く、正しく進み、正しく実践している、沙門・バラモンは世にいる
▽正思惟
・出離の思惟:貪欲の省察を為すまいと思惟し、無貪の省察を為そうと思惟することで、身によって、語によって、意によって邪に実践しないこと・無瞋恚の思惟:瞋恚の省察を為すまいと思惟し、無瞋の省察を為そうと思惟することで、身によって、語によって、意によって邪に実践しないこと
・無害意の思惟:害意の省察を為すまいと思惟し、無害の省察を為そうと思惟することで、身によって、語によって、意によって邪に実践しないこと
この正思惟における無貪・無瞋・無害という消極的な表現を、積極的な言葉で表現し直すと四無量心の慈悲喜捨になると思います。四無量心の瞑想法は初期のパーリ仏典の頃から定型化していましたが、より具体的に整備されたのが後のブッダゴーサ長老による「清浄道論」でしょう。四無量心の各支分ごとの修習対象と順番は次の通りになります。
・慈:自己→愛者→無関係者→怨敵の順に瞑想
・悲:自己→愛者→無関係者→怨敵の順に瞑想
・喜:愛者→無関係者→怨敵の順に瞑想
・捨:無関係者→愛者→怨敵の順に瞑想
愛者への貪欲もさることながら、怨敵への瞋恚や害意を取り除いていく段階が大変なようですね。ここで平等心を得るということは五蓋が取り除かれたことを意味し、その修行者は正定(正しい瞑想)に入っていけることになると考えられます。
このように、仏教の正しい瞑想とは、生きとし生ける者の幸せを願う愛を基本としていることが分かります。どんな悪人であっても自己に対する慈悲だけは持っているのではないか?との疑問もあるかと思いますが、それは違います。
誰でも、身体によって悪行をなし、言葉によって悪行をなし、心によって悪行をなすならば、その人々の自己は護られていないのである。誰でも、身体によって善行をなし、言葉によって善行をなし、心によって善行をなすならば、その人々の自己は護られている。
と、釈尊が説くように本当に自己に対する慈悲がある人は、故意に悪行をなして他者を傷付けることはないでしょう。ここは正見と関わってくるのかもしれません。