シン! 原始仏教探究ブログ

原始仏教探究ブログです

MENU

【原始仏教】初転法輪② 四諦の滅諦 ~原始仏教と日本仏教の繋がり~

 

○滅諦(滅聖諦)

比丘達よ、これが苦の滅(消滅)という聖なる真実である。即ち、かの渇愛を残り無く離れ、滅し、捨て、棄て、解脱して、執着のないことである。

 

苦(輪廻転生)の原因は渇愛でした。その渇愛が捨断され滅尽する場所は集諦と時と同じく次の場所となります。

・六根:{眼・耳・鼻・舌・身・意}
・六境:諸々の{色・声・香・味・触・法}
・六識:{眼・耳・鼻・舌・身・意}の識
・六触:{眼・耳・鼻・舌・身・意}の接触
・六受:{眼・耳・鼻・舌・身・意}の接触から生じる感受
・六想:{色・声・香・味・触・法}に対する想(表象)
・六思:{色・声・香・味・触・法}に対する思(思考)
・六欲:{色・声・香・味・触・法}に対する欲(欲求)
・六尋:{色・声・香・味・触・法}に対する尋(具体的考察)
・六伺:{色・声・香・味・触・法}に対する伺(抽象的考察)

六根、六境、六識については、以下もご参照ください。
https://buddism.club/terms

 

苦(輪廻転生)から解脱した境地について、釈尊が説いた箇所がパーリ仏典小部「ダンマパダ(法句経)」にあります。

 

不生なるものがあるからこそ、生じたものの出離を常に語るべきである。作られざるものの無為を感じるならば、作られたものの有為から解脱する。生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死の集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、それは喜ぶに足りない。それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は苦しみのことがらの止滅であり、作る働きの静まった安楽である。そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地をわたくしはよく知っている。来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。それが苦しみの終滅であると説かれる。水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地について自己の沈黙を自ら知るがままに、形からも、形無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これが彼の最後の身体である。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。

『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元 著より引用

 

釈尊は「生じないもの、成らぬもの、造られないもの、作為されないもの」が有ると説いています。そして、もしその「生ぜず、成らず、造られず、作為されないもの」が無いならば、そこには「生じ、成り、造られ、作為されたもの」からの出離(解脱)は無いであろうとのことです。即ち、「生ぜず、成らず、造られず、作為されないもの」が有るから、「生じ、成り、造られ、作為されたもの」からの出離(解脱)が有るということです。


不生・不成・不作・無為なるものと言えば、ウパニシャッド哲学にも登場した「アートマンとブラフマン」といった概念に近いものとなります。

釈尊は弟子達が他学派との論争に明け暮れないよう、衆生と如来(仏陀)の死後はどうなるかなど形而上学的領域について積極的に説くことはしませんでした。しかし、根本的なところではアートマンを認めていたと考えることができるのではないでしょうか。

 

後の大乗仏教において、アートマンとブラフマンはそれぞれ有垢真如(如来蔵・仏性)と無垢真如(法身)という形になったと言えるでしょう。このように考えると、原始仏教と日本仏教の繋がりが感じられます。また、同時に西田幾多郎の哲学とも繋がる部分をも感じます。
https://buddism.club/nishida