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【原始仏教】初転法輪⑤ 五蘊無我Ⅱ ~仏教の無我も空も虚無ではない~

五蘊無我(五蘊非我)について、パーリ仏典相応部で次のような説法があります。初転法輪では、四諦・八正道でなく、こちらが説かれたとする説もあります。

釈尊:

「比丘達よ、{色・受・想・行・識}は我ならざるものである。もしも、{色・受・想・行・識}が我であるならば、この{色・受・想・行・識}は病にかかることはないであろう。

また、{色・受・想・行・識}について、『我が{色・受・想・行・識}はこのようであれ。』とか、『我が{色・受・想・行・識}はこうあることがないように。』となし得よう。

しかるに、比丘達よ、{色・受・想・行・識}は我ならざるものであるから、{色・受・想・行・識}は病にかかり、また、{色・受・想・行・識}について、『我が{色・受・想・行・識}はこのようであれ。』とか、『我が{色・受・想・行・識}はこうあることがないように。』となし得ないのである。」

釈尊:

「比丘達よ、汝らは次のことをどう考えるか。{色・受・想・行・識}は常住であるか、あるいは無常であるか。」
五比丘:
「尊師よ、無常であります。」
釈尊:
「では、無常なるものは苦であるか、楽であるか。」
五比丘:
「尊師よ、苦であります。」
釈尊:
「では、無常であり、苦であり、変壊する性質のあるものをどうして、『これは我がものである。(我所執)』とか、『これは我である。(我執)』 とか、『これは我がアートマンである。』と見なされようか。」 
五比丘:
「尊師よ、そんなことはできません。」
釈尊:
「比丘達よ、それ故にあらゆる{色・受・想・行・識}、すなわち過去・未来・現在の、内・外、粗雑・微細、勝・劣、遠・近を問わず、全ての{色・受・想・行・識}について、『これは我がものでない。』とか、『これは我でない。』とか、『これは我がアートマンでない。』と、このようにこれをありのままに正しい智慧によって観察すべきである。

比丘達よ、このように観察し、教えを学ぶ聖なる弟子は色蘊を厭い離れ、受蘊を厭い離れ、想蘊を厭い離れ、行蘊を厭い離れ、識蘊を厭い離れる。厭い離れた時、貪りを離れる。貪りを離れるから解脱する。解脱したとき、『我は解脱した。』と知る者になる。即ち、『輪廻の生まれは尽きた。清らかな行い(梵行)は修められ、なすべきことはなし終えた。もはや、このような迷いの生存を受けることがない。』と覚るのである。」

『ゴータマ・ブッダ』早島鏡正 著より引用

 

この教えを聞いた五比丘は心から喜び、彼らは執着なく、煩悩の汚れから心解脱しました。つまり、世間に六人の阿羅漢がいることになったと説かれています。

 

仏教学者の中村元氏も各著書で述べるように、釈尊は「五蘊は我ではない」としか説いていないように思います。刹那刹那に生じては滅する五蘊、その非連続を連続として統一する存在がなければ我々の自我同一性は成り立たないでしょうし、そしてさらには輪廻転生の思想を説くのであれば十分に説明ができないはずです。

 

原始仏教では「無為なる自己」は無いとは説かれていません。有為なる人の五蘊(身心)を問題にし、「無為なる自己はこれでもない、あれでもない」と述べてあるだけです。パーリ仏典小部『ダンマパダ』にて、釈尊は涅槃を「自己の沈黙」と表現していました。これはいわば無分別の自己、自身の自己と他者の自己が繋がり、多であると同時に一であるそんな境地ではないかなと思うのです。

 

善悪の行為の主体であるからこそ、修行者は真の自己(無分別の自己)を求めて修行に励み努めなければならない、これは大乗仏教でも如来蔵(仏性)、光り輝く心、有垢真如、在纏位の法身といった言葉で再登場します。

 

○三法印

釈尊の三法印とは以下のようではないかと筆者は考えています。

涅槃寂静:

輪廻から解脱した境地において、「自己」の沈黙を自ら知るがままに、形からも、形無きからも、一切の苦しみから全く解脱する

諸法無我:

五蘊即ち、あらゆる現象そして身心もまた真の自己ならざるものである

諸行無常:

・(心身を含む)すべての作られたもの(諸法の中で作られたもの)は無常(移り変わるもの)である 

・おおよそ、生ずる性質のあるものは、滅びる性質のあるものである

→此縁性(イダッパッチャヤター):

「これが有るとき、かれが有る」  

「これが生ずることにより、かれが生ずる」  

「これが無いとき、かれが無い」  

「これが滅びることにより、かれが滅びる」