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【原始仏教】ブッダの修行と悟りとはどういうものだったか~瞑想修行と努力のバランス

 

成道前、二人の瞑想の師のもとを去った釈尊は、我流で苦行難行と瞑想の修行を続けました。ここまでの瞑想や苦行難行は、欲望(惑)を生じさせる原因として問題ではない感情・思考・欲求をも含めて全てを否定するような形で行われています。

しかし、例えば琴が音声快く、妙なる響きを発するためには弦が張り過ぎても、逆に緩やかすぎても駄目であり、平等な正しい度合を保っている必要があります。それと同様に、余りに緊張して努力し過ぎるならば心が昂ぶること(掉拳)になり、また、努力しないで余りにもだらけているならば怠惰(懈怠)となるため、平等な釣り合いのとれた努力が必要ということになります。

通りかかった資産家の娘スジャータの施しを受け、体力を回復させた釈尊は「たとえ、私の皮膚も筋も骨も、さらに全身の肉も血も干乾びようとも、私が正しい覚りに達しないうちは、この結跏趺坐を解くまい。」という覚悟を決めました。

○降魔

覚悟を決め、瞑想に入った釈尊の成道を妨げるため、魔王マーラは軍勢を率いて現れます。欲望の領域ではマーラは独裁君主として君臨するといわれています。この意味でマーラはナムチ(阿修羅)とも呼ばれますが、本来はインドラ神(帝釈天)に敗れた感性に属する悪魔の名であり、矢を携えた愛の神として現れます。マーラの第二の面として、マーラは死の主です。欲望は世の禍の原因でもあり、死(輪廻)の原因でもあるからです。

昔かつて神々が彼らの敵である悪魔(アスラ)と戦ったことがあったが、勝敗は容易に決しなかった。しかし、神々は戦いに敗れても北方にある『神々の城』に退却すれば、悪魔達を恐れる必要はなかった。それと同様に、悪魔達は南方にある『悪魔達の城』にいる限り、神々を恐れる必要はなかった。これと同じように、修行者が感性的欲望から解放され、マーラの力が彼に及ばない場所、いわば完全な城に例えられる瞑想に達してしまい、城の最高段階に到達してしまうと、マーラの威力は完全に砕かれる。

『仏教〈下〉』ベック著より引用

悪魔の軍勢は、欲望と恐怖を煽ることで、釈尊の信念を打ち砕こうとしますが、既に魔の軍勢の力が及ばない領域へ達していた釈尊はこれを全て斥け、降伏させました。

○成道
こうして、太陽がまだ西に傾かない間に、釈尊は魔の軍勢を打ち滅ぼし、初夜(宵の口)に宿命通(自身の過去世の生存を知る通力)を得、中夜(夜中)に天眼通(自身と他者における死と再生を見る優れた透視力)を清め、後夜(夜明けに近い頃)に縁起の理法を観察しました。太陽が昇るころ、全知者の智慧を獲得しました。釈尊はブッダガヤー(現在のボードガヤー)の地でついに輪廻転生からの解脱を果たすのです。

解脱を果たした釈尊の最初のことば
「家(肉体)の作者を探し求め、幾度も生まれ、輪廻の流れの中を得ることもなく、さ迷ってきた。再三再四と生涯を繰り返すのは苦である。家の作者よ、お前の正体は既に見抜かれたのだ。もはや二度と家を作ることは出来ない。お前の垂木は全て折れ、棟木も破壊されている。私の心は無作にいたり、渇愛の滅に到達する。」

○縁起(因縁生起)

釈尊は菩提樹の下で、ひとたび結跏趺坐したまま七日間解脱の楽しみにひたりながら坐していたと言われます。七日が過ぎた後にその瞑想から出て、その夜の最初の部分において縁起の理法を順の順序に従ってよく観察しました。

釈尊:
「これが有るときに、かれが有る。これが生起するから、かれが生起する。すなわち、無明によって行があり、行によって識があり、識によって名色があり、名色によって六処があり、六処によって触があり、触によって受があり、受によって愛があり、愛によって取があり、取によって有があり、有によって生があり、生によって老・死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。このようにして、この苦しみのわだかまりが全て生起する。」 

『熱心に瞑想に励む修行者に、まさに諸法が顕現するとき、彼の一切の疑惑は消滅する。原因ある法を知るが故に。』

その夜の中間の部分において、縁起の理法を逆の順序に従ってよく観察しました。

釈尊:
「これが無いときに、かれが無い。これが消滅するから、かれが消滅する。無明を止滅するならば、行が止滅する。行を止滅するならば、識が止滅する。識を止滅するならば、名色が止滅する。名色を止滅するならば、六処が止滅する。六処を止滅するならば、触が止滅する。触を止滅するならば、受が止滅する。受を止滅するならば、愛が止滅する。愛を止滅するならば、取が止滅する。取を止滅するならば、有が止滅する。有を止滅するならば、生が止滅する。生を止滅するならば、老・死・愁・悲・苦・憂・悩が止滅する。このようにして、この苦しみのわだかまりが全て消滅する。」

『熱心に瞑想に励む修行者に、まさに諸法が顕現するとき、彼の一切の疑惑は消滅する。諸縁の滅尽を知るが故に。』

その夜の最後の部分において、縁起の理法を順逆の順序に従ってよく観察しました。

釈尊:
「これが有るときに、かれが有る。これが生起するから、かれが生起する。これが無いときに、かれが無い。これが消滅するから、かれが消滅する。無明によって行があり、行によって識があり、識によって名色があり、名色によって六処があり、六処によって触があり、触によって受があり、受によって愛があり、愛によって取があり、取によって有があり、有によって生があり、生によって老・死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。このようにして、この苦しみのわだかりが全て生起する。無明を止滅するならば、行が止滅する。行を止滅するならば、識が止滅する。識を止滅するならば、名色が止滅する。名色を止滅するならば、六処が止滅する。六処を止滅するならば、触が止滅する。触を止滅するならば、受が止滅する。受を止滅するならば、愛が止滅する。愛を止滅するならば、取が止滅する。取を止滅するならば、有が止滅する。有を止滅するならば、生が止滅する。生を止滅するならば、老・死・愁・悲・苦・憂・悩が止滅する。このようにして、この苦しみのわだかまりが全て消滅する。」

『熱心に瞑想に励む修行者に、まさに諸法が顕現するとき、彼は魔軍を破って屹立する。日輪が虚空を照らすように。』

ここで登場する「十二縁起説」についてはまた別の記事で触れたいと思います。ものすごく単純に要点だけをまとめると次のような感じです。

無明(≒渇愛)
 →過去世の欲望(過度に求める貪欲と過度に避ける瞋恚)(業)
  →過去世の身・語・意による善悪の行為(業)
   →善行為の功徳と悪行為の罪障(業の種子)
    →現世の境涯、そして精神と霊的身体
     →霊的身体の活動と経験
      →過去世の欲望に基づく衝動
       →受肉(生・病・老・死・愁・悲・苦・憂・悩)

輪廻の原因として、善悪の行為(業)があり、善悪の業の原因として、欲望(貪欲と瞋恚)がありました。ならば、欲望(貪欲と瞋恚)を生み出す欲求・感情・思考自体を抑え込んでしまうというのは方向性として正しくなかったのでしょう。
欲望(貪欲と瞋恚)はあくまで潜在的に我々の中に存在し(随眠=随煩悩)、それらは新たに生じる欲求・感情・思考に結びついて顕在化するものと思われます。欲望(貪欲と瞋恚)を生み出すもとは無明(愚癡・迷妄≒渇愛)であり、釈尊は中道に基づく修行にてこれを見つけ出し滅ぼしたものと考えられます。

○梵天勧請(説法を決意)

人々に自身の覚りを説法すべきか否かを戸惑う釈尊に、梵天(ブラフマー神)が現れ、説法することをお願いします。

釈尊:
「私の覚ったこの真理は深遠で、見難く、難解であり、静まり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみがよく知るところである。ところが、この世の人々は執着の拘りを楽しみ、執着の拘りに耽り、執着の拘りを嬉しがっている。さて、執着の拘りを楽しみ、執着の拘りに耽り、執着の拘りを嬉しがっている人々は此縁性という道理は見難い。また、全ての形成作用(行:サンスカーラ)を静めること、全ての執着を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、ニルヴァーナ(涅槃)というこの道理もまた見難い。だから、私が理法を説いたとしても、もしも他の人々が私の言うことを理解してくれなければ、私には疲労が残るだけで、私には憂慮があるだけである。苦労して私が覚り得たことを今説く必要があろうか?貪りと怒りにとりつかれた人々がこの真理を覚ることは容易ではない。これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で見難く、微細であるから、欲を貪り、闇黒に覆われた人々には見ることができないのだ。」
梵天:
「尊い方、教えをお説き下さい。幸ある人(善逝)は教えをお説き下さい。生ける者たちのうちで汚れの少ない人々がおります。かれらは教えを聞かなければ退歩しますが、聞けば真理を覚るものとなりましょう。」

梵天というのは、西暦紀元前8世紀頃から作成されはじめた一群のウパニシャッド文献で、世界の森羅万象がそこから出て再びそこへ帰入していくところの「宇宙の根本原理:ブラフマン(中性名詞)」を男性名詞にして神としたものです。既に何度か登場しているブラフマンを擬人化した存在です。釈尊の時代には梵天は宇宙創造神として、神々の最高位に位置すると広く信じられていましたが、後のヒンドゥー教においては、ヴィシュヌ神、シヴァ神とともにトリムルティ(最高神の3つの様相)の一角を担いますが、ヴィシュヌやシヴァと比べ、トリムルティの中での重要性は低くなります。

釈尊は説法すべきか否か迷うものの、仏法を聞くことで救われる人達も必ずいるはずと思い直し、説法する道を選びます。仏典ではそのことが梵天勧請という形で神秘的に描かれています。