原始仏教は、お釈迦様によって直接教えられた教えを指し、仏教の最も初期の形態です。これに対し、大乗仏教と小乗仏教は、原始仏教から派生した後の伝統です。
原始仏教は、主にパーリ語経典にその教えが残されており、これらは「三蔵」(律蔵、経蔵、論蔵)と呼ばれる経典集に収められています。特に「四諦」(苦、集、滅、道)や「八正道」は、原始仏教の核心的な教えです。有名な経典としては、「スッタニパータ(経集)」「ダンマパダ(法句経)」などがあります。
【お釈迦様入滅前における僧団】
お釈迦様とその弟子達は遊行の生活をしていました。ただ、草木が成長する雨季(6月~9月)は彼らを踏み殺さないように僧団は精舎に滞在して外出を禁じ、集団の修行生活(安居)を送りました。それ以外の期間は1カ所に留まらずに、村から村へ、町から町へ遊行しながら説法して回ることになっていました。お釈迦様が入滅する前は、このように出家者(比丘・比丘尼)と在家者(優婆塞・優婆夷)の交流も盛んにおこなわれていました。
【お釈迦様入滅後における僧団】
お釈迦様の入滅後、比較的早く遊行の習慣は失われてしまったらしく、頭陀といって樹下や空閑処で修行する行に従う者を除いて、一般の出家僧たちは次第に精舎に安住するようになりました。精舎は信者の王侯や富豪の寄進したものもありました。
遊行をやめて一ヶ所に定住するようになった比丘たちは多くの在家信者が参拝にくるストゥーパ(舎利塔)の近くに精舎をつくって住むようになり、集まってくる信者達に法を説き、また彼らの布施を受けるようになりました。次第にストゥーパは仏教教団の宗教儀礼の中心として発展していきました。
【僧団の根本分裂】
一方で、お釈迦様の入滅後、弟子達は何度も集まり、お釈迦様の教えが後世に残るように経典の編集を始めました。しかし、第二結集の際に僧団は「上座部」と「大衆部」に根本分裂してしまいます。根本分裂の発端は戒律についての意見対立であり、時代の流れに合わせて変えるべきだと主張したのが大衆部、その変更に反対したのが上座部です。上座部は後に上座部仏教(南方仏教)、大衆部は大乗仏教(北方仏教)となります。
小乗仏教は、原始仏教を継承しつつ、それを体系化・整理した伝統で、主に「上座部仏教」とも呼ばれます。小乗仏教では、阿羅漢になることが目標とされ、個人の解脱を最終的な目的とします。代表的な経典には、「説一切有部」など部派仏教の経典などがあります。
大乗仏教は、菩薩を理想とし、自己だけでなく他者の救済も目指す仏教の形態です。大乗仏教は、小乗仏教よりも普遍的な救済を目指し、仏性(如来蔵)の概念など新しい理念を導入しました。代表的な経典には、「般若経典」「浄土経経典」「法華経」「華厳経」を含む初期大乗経典、中観派の経典、唯識派の経典などがあります。
【根本分裂後】
紀元100年前後の仏教界において、伝統的な上座部仏教が圧倒的に優勢な社会的勢力を持っていましたが、一般民衆ならびにその指導者であった大衆部の間では新たな宗教運動が起こりつつあったのです。
上座部仏教は国王・藩侯・富豪などの政治的・経済的援助を受け、広大な荘園を所有し、その社会的基盤の上に存立していたとされます。このように、社会的勢力を有し、莫大な財産に依拠し、独り自ら身を高く持し、自ら身を潔しとしていたために、その態度は独善的・高踏的であったと言われています。
彼らは人里離れた地域にある広大な僧院の内部に居住し、静かに瞑想し、坐禅を修し、煩瑣な教理研究に従事していました。
大乗仏教はそんな彼らの生活態度を攻撃しました。彼らの態度は利己的・独善的であるといって蔑視し、彼らに小乗という貶称を与え、自らは利他行を強調したのです。大乗仏教では慈悲の精神に立脚して、生きとし生ける者全てを苦から救うことを希望します。自分自身が彼岸の世界に達する前にまず他人を救わねばならぬとします。かかる利他行を実践する人を菩薩大士と称し、出家した修行者でも、在家の国王・商人・職人などでも衆生救済の誓願を立てて、それを実践する人は皆菩薩であるといいます。
その他方では諸仏・諸菩薩に帰依し、その力によって救われ、その力に与って実践を行うことが説かれていました。従って信仰の純粋なるべきことを強調し、信仰の対象としてお釈迦様はますます超人的なものとなっていきます。大乗仏教においては三世十方にわたって無数に多くの諸仏の存在を明かすことになりました。諸仏の中でも阿閦如来、阿弥陀如来、薬師如来などが特に熱烈な信仰を受けました。また、菩薩も超人化されて、その救済力が強調された。弥勒菩薩、観世音菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩などは特にその著しいものです。
原始仏教、小乗仏教、大乗仏教は、教義の重点や目指すところに違いがあるにしても、共通してお釈迦様の教えを根底に持っています。原始仏教を学ぶことは、仏教の根源的な思想に触れることであり、仏教全体の理解を深める上で非常に重要です。また、そのシンプルで普遍的な教えは、現代人にも多くの示唆を与えてくれるでしょう。
原始仏教を学ぶ楽しさや必要性は、仏教の本質に迫ることができる点にあります。それは、時代や文化を超えた普遍的な真理を求める探求であり、内面の平和や解脱への道を探る旅でもあります。原始仏教には、現代社会で生きる私たちにも通じる、人間としての基本的な問いかけや、生きる智慧が詰まっています。そのため、原始仏教を学ぶことは、単に歴史的な学びに留まらず、自己と向き合い、より豊かな人生を送るためのヒントを得ることにも繋がるのです。