出家した釈尊の修行の話に入る前に、当時の宗教的な時代背景を見ていきたいと思います。釈尊をはじめ、当時の出家者達が苦行や瞑想の修行をする理由は何なのかが分かりやすくなるかと思います。
○生天思想、そして天界での再死への恐れ
西洋人と祖先を同じくするアーリア人がコーカサスの地を離れて東方に向かって遊牧の旅を続け、一部はイランに入り、他は西北インドからインダス河の上流五河地方を占拠し、定住しました。アーリア人は紀元前1200年頃までに「リグ・ヴェーダ」の宗教を成立させます。アーリア人が「リグ・ヴェーダ」の中で信じた神々は多神教であり、例えば自然神として、天神ディヤウス、太陽神スーリヤ、暴風神ルドラ、雷神インドラ(帝釈天)、未来神としてヤマ(夜摩・閻魔)などが挙げられます。
アーリア人は死者の王であるヤマの支配する楽土に達するために祭祀を実行しました。ごく初期のヴェーダの宗教では、地獄の観念はまだなく、人間は皆死ぬとヤマの死者の国に赴き、そこで永遠に生きる(完全な身体を得る)と考えられました。その頃考えられていた死者の国は、ヤマや祖先達と共に楽しめ、美味な食べ物に溢れ、沢山の樹木が心地よい緑陰を作り、絶えず涼しい微風が吹いている理想の楽園となっており、死者の国の王ヤマは温厚そのものでした。
しかし、楽園である死者の国で永遠に生きることができず、そこで再び死んだりしないだろうかとの恐れが徐々に出てきます。死後の国での再死を恐れたアーリア人達はそこで再死しないで済む方法を求めました。そこから、生前にヴェーダの宗教で為すべきとされていることをきちんとやり、為すべからずとされていることをやらないことで再死を免れることができる、そうでないならば再死に至ると考えられるようになります。
この頃から生前の行いが死後に影響するという因果応報の考え方が見られ、死後の天界(天国)への再生は必ずしも不死(再死しない)を保証するものではなくなっていきます。
○輪廻転生の思想、不死の霊魂=アートマン
その一方で、不死への追求からか、不死の霊魂=アートマン(個体の生命原理)の考察が注目されるようになっていきます。人が死ぬと、その人の身体に宿っていたアートマン(不死の霊魂)が身体から出て行くのですが、そのアートマンにその人が現世で得た学識と、現世で行った行為の余習=業(種子)とがくっついてゆくというような言い方がされます。
紀元前八世紀に現れたウッダーラカ・アールニはインドで古くから行われていた土着の輪廻転生思想を初めて受容したアーリア人バラモン哲学者でもありました。「五火二道説」と言われ、人は死後に「神々の道」と「祖霊の道」のどちらかに分岐します。前者は輪廻転生からの解脱=不再死への到達を意味しますが、後者は輪廻転生への道であり、次の生涯(来世)に人間や動物として生まれたりというのは、その人がこの世で行った善悪の行為によって定まるのだという思想です。
ところで、「リグ・ヴェーダ」には世界の森羅万象が有(ブラフマン)から生じたのか、あるいは無から生じたのかという議論が見られます。ウッダーラカ・アールニは有(世界の森羅万象)は有(ブラフマン)からしか生じないとして、唯一無二の根本的な有からいかにしてこの世界の森羅万象が生じたかを体系的な流出論的一元論哲学で説明することにも成功しました。
ウッダラカ・アールニが輪廻転生思想という死生観を受容してから、この死生観は瞬く間にインド全土に広まります。そして、インド人達は輪廻転生を苦と捉え、それからの永久の脱却=解脱(五火二道説における神々の道)についても考察されるようになり、解脱を求めるために出家となる人達が続々と出現するようになります。ウッダラカ・アールニによる、
の句は「我(アートマン)は有(ブラフマン)である」の句とともに、ウパニシャッドを代表する文章として有名で、彼の説では真実の自己とはアートマンであり、宇宙開展の原理である有(絶対者ブラフマン)に他ならず、人々は有(ブラフマン)を覚る時、死後に完全に有に合一し、解脱の境地に住するものとなるといいます。
釈尊以前、即ち、紀元前5世紀頃までに「ブリハドアーラニヤカ」、「チャーンドーギヤ」などのウパニシャドが成立していたとされます。「ブラーフマナ」文献において、祭祀の意義に関する哲学的究明がなされていましたが、ウパニシャドに至っては祭式の背後にある宇宙・人生の持つ形而上学的考察がなされ、絶対者として「アートマン」や「ブラフマン」がたてられるに至ります。そして、その絶対者を知ることによって解脱を得ることができるのであって、祭祀の実行によってではないとされました。
ブラフマンは元は「呪力に満ちたヴェーダの言葉」または、「ヴェーダの言葉に内在する神秘力」の意味であり、アートマンはブラフマンが客観的・中性的原理であるのに対して、むしろ主体的・人格的原理であるとされたのです。アートマンは元々「気息」の意味で、転じて「生気」「身体」「自身」の意味ですが、哲学的には「自我」「自己」「霊魂」「本体」とされ、ウパニシャドではアートマンとブラフマンは本来同一であるとする「梵我一如」が代表的です。アートマン(自我)が本来はブラフマン(宇宙我)と同一であると覚ることで解脱ができるという思想です。
○惑(貪・瞋)→業→苦(輪廻)
紀元前七世紀、ウッダラカ・アールニの一世代後に登場したヤージュニャ・ヴァルキヤは「真の自己とは、世界とは何か」という問題の究明に鋭い視点を導入し、独自の自己、世界観を確立し、後のインド哲学に多大な影響を及ぼしました。彼の世界観は一人一宇宙的ですが、真の自己と世界を明確に分ける二元論の傾向が強く、後のサーンキヤ哲学に影響を与えたと言われています。
ヤージュニャ・ヴァルキャは、アートマン(真の自己)は心・心作用・身体・環境の中にあるけれども、それらとは異なるもの(真の自己は自己の外にあるもの)であり、内部で制御するもの、つまり、それらをそれらたらしめているもの、即ち、それらを内部から照らし出すものであると説きます。真の自己は何ものによっても媒介されることなしにその存在が確立しているのに対し、世界の森羅万象は真の自己による認識というものに媒介されてはじめてその存在が確立されるものであるということです。真の自己というものはそれを存在させる如何なる原因も持っておらず、つまり、不生不滅です。
また、ヤージュニャ・ヴァルキャは「欲望(惑=貪・瞋)」について言及しています。輪廻生存の直接の原因は善悪の業でした。では、我々はどうして善悪の業を起こすのか?それは、そうしたいと思うからそうするのであって、つまり業は我々の欲望(惑)を原因として起こるものだということです。即ち、欲望(惑)の滅によって我々は輪廻からの解脱=絶対者ブラフマンへの帰入を果たせます。
○釈尊の苦行・瞑想の修行
ここから、釈尊の話に戻ります。当時瞑想の道を歩んでいた修行者は感情や思考を停止状態に持ち込むことで、欲望(惑)の滅を目指しました。これに対して、苦行は身を苛み、極度の禁欲で心を鍛えることによって、欲望(惑)を欲求全般もろともいわば力づくで抑え込むということを目的としたものでした。
○苦行林
諸説ありますが、出家した釈尊はまず、天国を目指して善業・功徳を積んでいる修行者が散在している行者の庵を訪れたと言われます。
しかし、釈尊はこの苦行に満足しませんでした。苦行というものは色々なやり方があるけれども、所詮心身を痛めつける苦痛を本質としており、苦行の目指す結果はせいぜい、天国への到達(生天)でした。しかも、天国を含め一切は移り変わる世の中です。そうなると、苦行の庵の労苦はあまりにも僅かなところを目標としているに過ぎないことになります。
釈尊は幾晩か諸々の苦行を実践し、またその意義を内面的に考えましたが、ついにこの苦行の里を去りました。そして、究極的なよりすぐれた事柄に開眼したことで有名なアラーダという聖者のもとを訪れます。
○アーラーラ・カーラーマ仙人(アラーダ仙)
巴語:アーラーラ・カーラーマ、梵語:アーラーダ・カーラーパ(アラーダ)。彼の居住地については諸説あり、定かではありません。ヴィンディヤ山脈(ヴィンドヤコーシュタ)とする説や、ヴェーサーリー(ヴァイシャリー)とする説、ブッダガヤーとする説が存在します。300人の弟子に瞑想・ヨーガの指導を行っていました。
釈尊へ無所有処定という瞑想の境地を教えた瞑想の師の一人ですが、古典サーンキヤ哲学(カピラ開祖)を奉ずる者とする説もあり、古典サーンキヤ哲学を教えたとする説もあります。この時既に、瞑想の基礎を体得していた釈尊はアラーダ仙が説く無所有処定をすぐに体得しました。しかし、この境地は新たに生じる顕在的な欲望(惑)を停止状態に持ち込むだけで、既にアートマン(霊魂)に固定化された潜在的な欲望(惑)を滅ぼせるものでないことに気付き、釈尊は立ち去ります。
○ウッダカ・ラーマプッタ仙人(ウドラカ仙)
梵語:ルドラカ・ラーマプトラ。マガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)にて700人の弟子と共に住んでいました。アラーダ仙のもとを去った釈尊は、次にウドラカ仙のもとを訪れます。ウドラカ仙はアラーダ仙が説く無所有処定から進んで、その彼方に非想非非想処定の境地を見つけていました。しかし、釈尊はこの状態に達しても、再び輪廻の世界に舞い戻ってくることを免れないことに気付き、立ち去ります。
○苦行禅の道
釈尊は師に就かず、我流で極端な苦行と瞑想に励み、輪廻からの解脱を目指します。この時、五人の比丘(コンダンニャ、ヴァッパ、バッディヤ、マハーナーマ、アッサジ)が釈尊と共に修行するようになります。彼らについては諸説あり、釈尊の父王シュッドーダナの要請で修行に加わったとする説や、ウドラカ仙の弟子の中で、釈尊に付いてきた者達とする説もあります。
その苦行難行はかなり過酷なものであり、1日1食→2日1食→→7日1食→→半月1食といった断食行に近いものから、特定の食物だけを食す行・常に直立する行・常にうずくまる行・棘の上に臥す行・水浴の行などに従事し、更には呼吸をせき止める止息禅なども行ったようです。死が迫るこの時の釈尊に魔の誘惑があったことが説かれています。
○極端な苦行を捨てる
苦行により、保つ上で究極の必要最低限だけで満足できる心身≒心身の清らかさを手に入れた釈尊ですが、この激しい苦行をもってしても、なお、全く妙なる優れた智見に達することはできませんでした。釈尊はおそらく、覚りに至るには他の道があるであろうと考えます。
ここまでの瞑想や苦行難行は、欲望(惑)を生じさせる原因として感情・思考・欲求の全てを否定するような形で行われています。しかし、例えば琴が音声快く、妙なる響きを発するためには弦が張り過ぎても、逆に緩やかすぎても駄目であり、平等な正しい度合を保っている必要があります。それと同様に、余りに緊張して努力し過ぎるならば心が昂ぶることになり、また、努力しないで余りにもだらけているならば怠惰となるため、平等な釣り合いのとれた努力が必要ということになります。
釈尊は山を下り、通りかかった資産家の娘スジャータの施しを受けます。しかし、事情を知らない五人の比丘は釈尊が食欲に負け堕落したと誤解して見放してしまいます。しかし、釈尊はこのスジャータの施しで確実に体力を回復させました。そして、釈尊は最後の覚悟を決めました。